2024年07月04日 05:03
川崎フロンターレに5年間在籍した浦田尚希は、公式戦での得点は13点にとどまったが、そのなかには昇格を決めるVゴール、優勝を阻止する決勝点というように価値がはね上がる一撃もあった。2002年シーズン限りで引退し、中学と高校の教師などを経て13年から埼玉平成高の保健体育科教諭、サッカー部顧問として地元に腰を落ち着かせている。 埼玉の名門・武南高2年で全国高校選手権8強、3年でベスト4進出。Jリーグ入りを希望したが、声が掛からなかったため熱心に誘ってくれた国士舘大に進んだ。3年生の秋からレギュラーとなり、関東大学リーグ1部で4年ぶり6度目の優勝に貢献。翌年のリーグ戦は2位だったが得点王を獲得し、全日本大学選手権では14年ぶり2度目の制覇に尽力して最優秀選手賞に輝いた。 だがこれだけの実績を残しても、Jリーグからの雇用はなかった。 「自分は俊足でも長身でもないので、スカウトはプロ向きではないと判断したのでしょうね。大学関係者は教員になることを勧めましたが、どうしてもプロでやりたかった。そんな時に川崎から話があったんです」 チーム名が川崎フロンターレに変わり、Jリーグ準会員となった1997年に加入。ジャパン・フットボールリーグ(JFL)を戦っていた時期だ。 当時は運営母体の富士通の社員にもなれたし、プロ契約も交わせたが浦田はプロとして勝負する道を選んだ。しかし「FWのポジションを争うライバルは、今までとはまるでレベルが違いました」と述懐する。 元ナイジェリア代表のムタイルは96年から在籍したエースで、1試合5点のJ1最多得点記録を持つ野口幸司が97年途中に加入。翌年はツゥットに服部浩紀のほか、「ヴァルディネイという半端なく上手いブラジル人も加わり、どう食い込んでいこうか頭を悩ませました」と苦笑する。 3年目の99年にJ2が発足し、創設メンバーとなった川崎は、ティンガとツゥットのブラジル人コンビが活躍。松本育夫監督が第6節から指揮を執ると、第9節から12試合連続負けなしで首位に立ち、第34節のサガン鳥栖戦で2位以内を確定させてJ1昇格を果たす。立役者のひとりが浦田だった。 後半16分に起用され、1−1で延長に入った。その前半14分、武南高と国士舘大の先輩・伊藤彰の左クロスをヘッドで合わせてVゴール。控えめ男が派手なガッツポーズをつくって大喜びした。 「この年は松本さんに上手く使ってもらった。点を取らないと外されるので、とにかく出場したら結果を残すことだけを考えた。単年契約だし1年、1年が勝負でした」 99年はリーグ戦28試合で6得点。このうちベンチスタートの16試合で4点を奪う勝負強さを見せた。 【画像】セルジオ越後、小野伸二、大久保嘉人、中村憲剛ら28名が厳選した「 Jリーグ歴代ベスト11」を一挙公開! J1は今までとは別世界だったそうで、「観客数もメディアの数も露出度も全然違った。それに選手の質が高く、力を抜いて効率的にプレーしている人が多かった印象ですね」と往時を思い起こす。 晴れやかなJ1の舞台では、アビスパ福岡との開幕戦から4試合続けて先発。あのVゴールを決めた後も、天皇杯3回戦でジェフユナイテッド市原から2得点するなど、好調さを堅持していた。 だが好事魔多し。元々右足首の状態が悪く、それに加えて右ひざの内側と外側の痛みが治まらなくなった。手術するほどではないとの診断から、我慢しながら練習を続け試合にも出ていたが、「全然快方に向かわず、蹴ると痛くて仕方なかった。モヤモヤした気分を引きずり、出場しては離脱する悪循環でした」と苦々しい表情でこう言った。 それでも初めて途中出場した第1ステージ第14節で初得点を決め、続く最終戦でも1−1の後半41分に送り込まれた。対戦相手のセレッソ大阪は、勝てば初のステージ優勝という一世一代の大仕事である。 延長後半1分だ。我那覇和樹が右から入れた斜めのパスを、鮮やかな左足ボレーで右上に突き刺した。昇格を決める前年のVゴールに続き、またしても記憶に残る得点を刻んだのだ。「2回もおいしいところをもらっちゃいました。アップの時から今井さんに“早く出してくれ、出してくれ”ってアピールしていたんですよ」と嬉しそうに長居スタジアムでの出来事を説明した。 今井敏明監督は前の4人についてはポジションを固定せず、流動的にプレーさせていた。「あの時の浦田は好調だったし、よく動き回る選手でした」と述べ、「俺に任せて下さい、ってアピールするのは大事なことですよ。私は監督時代、選手の目をちらっと見て確認したものです」と四半世紀前の記憶をよみがえらせた。 ところが第2ステージに入ると右ひざの痛みが激しさを増した。ピッチに立ったのは4試合で、J2に降格した01年はさらに悪化。リーグ戦は控えに2度入っただけで、1試合も出場できずに契約満了となる。 00年は川崎がJ1に昇格し、浦和レッズがJ2に降格した年だ。実家のある春日部市から埼玉スタジアムは近い。「一度でいいから埼スタでレッズと戦いたかった」と、この時ばかりは名残惜しそうだった。 トライアウトで次の職場を探し、ヴァンフォーレ甲府が唯一手を挙げてくれたが、出場10試合で1得点。「ひざの痛みが限界に達し、子どもも生まれたので引退して次のことを考えないといけなかった」と腹を固めた。JFL、J2、J1と3つのカテゴリーで戦った6年間の短いプロ生活に別れを告げた。 プロ選手になれたとしても引退後を視野に入れ、サッカーを生かせるのは教師と考え、大学では教育職員免許を取得していた。 03年4月、埼玉県川口市立榛松中学の保健体育科に臨時的任用教員として赴任。サッカー部の顧問も担当し1年間奉職した。着任する2か月前、川口市内のサッカークラブでコーチを務めたことで、違和感なく生徒と向き合えたが、“臨任”は1年限りで終了する。 Jリーグが02年に設立したキャリアサポータセンターに次の道を相談すると、石川県の金沢スポーツクラブV10を紹介してもらった。「フットサル場を新設し、サッカースクールを立ち上げるタイミングでした。金沢は雨の多い土地柄なので室内のスクールは需要があり、園児から中学生まで多くの生徒が集まりました」と説明し、3年間勤めた。 第一子が小学校に入学する前、金沢に永住するか埼玉に戻るかで迷った末、後者に決めた。首尾よく東京の駿台学園高への就職がかなう。 保健体育科教諭とサッカー部顧問の肩書で07年から6年間勤務し、「担任も持てて充実していた。部活動では上手くなるためのノウハウを伝えつつ、生徒が楽しくやれることに重心を置きました」と述べる。 最後は地元に貢献したい思いが募り、13年4月から埼玉平成高へ職場を変え、今春12年目を迎えた。 浦田が赴任した年の10月に人工芝グラウンドが完成。この2年後、将来プロで活躍できる選手育成と並行し、著名大学への現役合格を目ざす進学コース(スーパーサッカー)が新設され、硬式野球部とともに看板部活動クラブとなった。 それまで部員は30人ほどで、戦績にしても02年に全国高校選手権予選の16強が1度あっただけ。しかしこれを境に中学生の好素材が続々と入部し、1学年で約70人集まるようになった。Jリーグ川崎でレギュラーの左SB佐々木旭、ツエーゲン金沢のDF長峰祐斗は一期生だ。 15年には川崎で1年間同僚だった三島伸也がコーチに加わった。チームづくりの信条を尋ねると「高校で燃え尽きちゃうような指導はしたくない。的確な判断の下でプレーし、上に進んでも通用する選手を育てたいですね」と持論を展開し、「育成に力を入れつつも、しっかりビルドアップできる戦術で結果も追求していく」と述べた。 浦田が指揮を執ってから、全国高校選手権予選は8強が1度にベスト16が5度。昨年の関東高校大会予選は準優勝し、本大会でも1勝した。中期的な目標は、県大会で常に8強から4強を狙える安定した力を身に付けることだ。 埼玉にはサッカー関係の知人が大勢いるうえ、常に優勝候補だった当時の武南OBということから恩恵も受けた。ともに県高体連サッカー専門部委員長だった田中龍太郎、二見元は武南の先輩で、多くの卒業生が指導者として活躍していたからだ。 川崎がJ1に昇格した頃、平山昌弘というフィジカルコーチに出会った。80年代後半、スキーの旧ユーゴスラビア代表チームに帯同し、五輪やワールドカップのメダル獲得に貢献。国内では各分野のアスリートを指導する腕利きのトレーナーだ。 浦田は外国人選手が放つシュートやヘディングの威力の源が理解できなかったが、平山の理論を聞いたら納得し、筋力強化の考え方が180度変わったという。 その平山が14年から指導陣に名を連ね、折を見ては選手に手ほどきしてくれる。 「身体の使い方がものすごく大切なことを学びました。一流選手というのは上半身をしなやかに使っていますが、多くの選手が固まってしまう。関節を上手に使うことが技術力向上に役立つことを知り、あれからずっと身体の使い方を研究しています」 短いプロ生活に悔いはなかったのだろうか? 「僕は何をするにも無理をしていた。身体の使い方をもっと早く理解していたら怪我を防げ、もう少し長くやれたのかもしれない。だから身体の使い方を取り入れたメニューを勉強し、その悔しさを今の指導に生かしたいんです」 浦田が取材中、一番力を込めて放った言葉がこれだった。 (文中敬称略/名称はいずれも当時のもの) 取材・文●河野 正
2024年07月07日 17:22
パリ五輪に挑む大岩ジャパンのメンバーがついに発表された。ここでは56年ぶりのメダル獲得を目ざすU-23日本代表の選ばれし18人を紹介。今回はGK小久保玲央ブライアン(ベンフィカ)だ
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パリ五輪世代はGKに実力者がひしめく。A代表でポジションを掴みつつある鈴木彩艶(シント=トロイデン)、今年1月のアジアカップでA代表に初招集された野澤大志ブランドン(FC東京)、2019年のU-17ワールドカップに出場し、昨年はクラブでレギュラーに定着した時期もある佐々木雅士(柏)、昨年10月のアジア競技大会で活躍して今季は千葉で正守護神を務める藤田和輝。タレントを挙げれば、枚挙にいとまがない。
群雄割拠のGK陣のなかで、パリ五輪メンバーで背番号1を託されたのが小久保玲央ブライアンだ。パリ世代チーム初の海外遠征となった22年3月のドバイカップから継続して招集され、鈴木と熾烈なポジション争いを繰り広げてきた。
パリ五輪では鈴木が招集外となっており、小久保にかかる期待は大きい。ナイジェリア人の父とバスケットボールをやっていた日本人の母から譲り受けた身体能力は抜群で、191センチの高さとリーチを活かしたセービングに定評がある。その実力に疑いの余地はなく、4月中旬から5月初旬にかけて行なわれたU-23アジアカップ(パリ五輪アジア最終予選を兼ねる)での活躍は記憶に新しい。
その一方で、キャリアを振り返ると、決して順風満帆ではなかった。
柏のアカデミーで育った小久保は早くから将来を嘱望されてきたが、U-18チームに入ってからは伸び悩んだ。思うように出場機会を得られず、レギュラーに定着したのは高校3年次を迎えてから。
経験を積んでトップチームの練習にも参加するまでになり、当時正GKを務めていた中村航輔(現・ポルティモネンセ)からも多くの学びと刺激を受けた。高3の春に話を聞いた際にも、小久保はこんな言葉を残している。
「本当に異次元。シュートストップの範囲とか安定感、1対1で身体を張るところ。ゴールを入れさせない技術はトップレベルでした」
その中で小久保は海を渡る決断を下す。今でこそ高卒で国外に行く流れができつつあるが、当時はまだそこまで多くなかった。18歳の異例の決断に驚きの声も聞かれたが、決して無謀な挑戦をしたわけではない。
18年1月に開催されたアルガス国際カップに柏U-18の一員として出場。準決勝でベンフィカと対戦してPK戦で勝利を収めると、スカウトの目に止まり、きちんと評価を受けての加入だった。
単身ポルトガルに渡ると、最初はU-19チームでプレー。20年8月にはUEFAユースリーグで準優勝に貢献し、その後はBチームを主戦場としつつ、トップチームのサードGKとしてチャンピオンズリーグの試合でもベンチ入りした。
【PHOTO】悲願のメダル獲得へ!パリ五輪に挑むU-23日本代表18名とバックアップメンバー4人を一挙紹介!
着実に経験を積むなかで、大岩ジャパンでは苦戦。ポジション争いが激しく、思うように出場機会を得られなかった。なかなか鈴木の牙城を崩せず、22年6月のU-23アジアカップではサブに甘んじ、23年9月のU-23アジアカップ予選でも出場機会を得られなかった。
さらに不運だったのが、怪我やコンディション不良の影響でそこから半年近く代表から遠ざかった点だ。しかも、鈴木は同年10月からA代表の活動に専念。ライバルがU-23代表の活動から離れた状況下で、ポジション奪取のチャンスを活かせなかった。
しかし、今年3月に久しぶりに代表に戻ってくると、好プレーを連発。直後に開催された先述のU-23アジアカップでは正GKとして活躍。最後尾から仲間を鼓舞しつつ、正確なセービングでピンチを幾度も救った。
最大のハイライトは、パリ五輪の出場権を手にした後の決勝だろう。ウズベキスタン戦は劣勢となり、押し込まれる展開が続いた。なんとか90+1分にMF山田楓喜(東京V)が先制点を決めたが、直後に右SB関根大輝(柏)がPKを献上。絶体絶命の大ピンチを迎えながらも、見事に読み切ってストップ。優勝に貢献した。
パリ五輪では鈴木が招集外だが、ライバルがメンバー入りを果たしていたとしても、正守護神の座を奪えるだけのプレーを見せており、自信はある。柏から世界へ――。4年に一度の大舞台でどんなプレーを見せるのか。
「日の丸は自分が15歳の頃から背負ってきた。今でも変わらないことですが、いつどこで背負っても重みは感じる」
覚悟を決めた守護神は、恐れずに日本のために戦う。その先にはきっとまだ見ぬ景色が待っている。
取材・文●松尾祐希(サッカーライター)
2024年07月07日 17:00
自身6大会目のEURO出場となったポルトガル代表クリスティアーノ・ロナウド。だが、無得点に終わり、チームも準々決勝で敗退した。
ロベルト・マルティネス監督は39歳のロナウドをスタメンに固定。すでにグループステージ突破が決まっていたジョージア戦を除いて、最後までピッチに立たせた。延長戦になったスロベニア戦でもフランス戦でもロナウドは交代せず。
そうしたなか、『Sky Sports』は、ロナウドの代表キャリアは終わったのかという記事を伝えていた。
「ロナウドは当たり前のように代表のスタメンに選ばれ続けていたが、これで最後になるかもしれない。そこにロマンチックな意味はなく、マルティネス監督は彼をそこに置きたかっただけだ。
今大会のポルトガルでロナウド以上にプレータイムが長かったのは、GKディオゴ・コスタのみ。ポルトガルは5試合でゴール期待値が9.4もあったが、奪った得点は3つだけで、ロナウドは無得点だった。
なぜこの39歳がポルトガルの並外れた才能を持つベンチ要員を差し置いて先発に選ばれたのか。ロナウドの選出は実力ではなく、評判の厳しさに左右された。マルティネス監督は彼を外すことを恐れたのだ。
ロナウドの揺るぎない自信は、反証が積み重なってもポルトガル陣営全体に浸透しており、議論の余地はほとんどなかった。この偉大な選手を下げるのに十分妥当だとみなされる有効な反論は確かになかった。
そして、控え選手たちは、ロナウドがGKよりも少ないタッチ数(6回)になるのを見守った。彼らには試合にインパクトを与えるチャンスは訪れなかった。こうして、フラストレーションは増すばかりになった。ロナウドが流れのなかで放ったシュートは2本で枠内に飛んだのは1本だけだった。
それでも、彼もポルトガルも栄光の日々から抜け出せないのは、両者の頑固さの表れである。
これらの事実(これまでロナウドが代表で残してきた数々の功績)は、ポルトガルの監督が最後までこのタリズマンに寄り添った理由として、最も説得力のある根拠となるかもしれない。
しかし、ロナウドにとって最後のEUROでの奮闘は、ゴールなしに終わり、次の世代へと移る時期が来たという避けることはできない認識となった」
ロナウドの衰えは顕著で、世代交代は避けられないということだろうか。
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また、フランスメディア『RMC』のジャーナリストであるダニエル・リオロ氏もロナウドに対して辛辣な意見を口にしていたそう。
「ロナウドはポルトガルのEUROを台無しにした。私はいつもポルトガルが好きだと公言している。
ポルトガルは素晴らしいチームであり、並外れた選手もいるし、2016年に成し遂げたこと(EURO優勝)を考えると、より良い結果を出していないのは信じられないことだ。
ロナウドがレジェンドであることは理解しているが、彼は何年もの間、他の選手の昇格を阻止し、チームに何も貢献していない。
フランス戦でそれは明らかだった。ポルトガルは10人でプレーしていた。彼はレジェンドであり、これからも崇拝されるかもしれないが、EUROでポルトガルがさらに前進するのを阻止したのは彼だ。
このような定評のある選手が、まるでオリンピック復帰のように最後の出場を果たすのは見たくない。哀れなことだし、我々はページをめくる必要がある」
ロナウド自身も最後のEUROだと宣言していたが、これで代表引退となるのだろうか。
2024年07月07日 16:24
ボローニャが、ドルトムントを退団したドイツ代表DFマッツ・フンメルスの獲得に関心を示しているようだ。6日、イタリアメディア『スカイスポーツ』が報じた。
ボローニャは2023−24シーズンのセリエAを5位で終えて、新シーズンのチャンピオンズリーグ(CL)出場権を獲得。前身大会ヨーロピアンカップ時代の1964−65シーズン以来、60年ぶりの大舞台に向けて、国際大会での経験が豊富なフンメルスを迎え入れたいようだ。
現在35歳のフンメルスは、バイエルンの下部組織で育ち、2007年5月にトップチームデビュー。2008年1月にドルトムントへ移籍すると、大黒柱として2010−11シーズンと11−12シーズンのブンデスリーガ連覇に導いた。2016年夏にバイエルンへ電撃復帰したものの、3年後にドルトムントへ帰還。2020−21シーズンのDFBポカール制覇や昨季のCL準優勝などに貢献した。
ブンデスリーガ通算442試合、CL通算90試合に出場。ドイツ代表では78キャップを数え、FIFAワールドカップブラジル2014の優勝メンバーともなった。実績十分なセンターバックを巡っては、やはり争奪戦がぼっ発。イタリアではローマや昇格組コモがフンメルスの獲得に躍起となっており、ブンデスリーガの無敗王者レヴァークーゼンも同選手への関心が報じられている。
2024年07月07日 16:14
7月6日、湘南ベルマーレはJ1第22節で浦和レッズと敵地で対戦し、3−2で勝利した。
2024年07月07日 16:12
柏レイソルに所属するU-23日本代表のFW細谷真大が、テレビ東京系列で放送されたサッカー専門番組「サタデーナイトJ」で、元日本代表MFの松井大輔氏のインタビューに応じた。
柏のU-15、U-18出身の細谷は、2020年にトップチームに昇格。22年には33試合に出場して8得点を挙げ、ベストヤングプレーヤー賞を受賞。昨季は34試合・14得点、今季はここまで18試合・2得点を記録。日本代表でも6試合・1得点の実績があり、大岩剛監督が率いるU-23日本代表では貴重な得点源として期待されている。
【PHOTO】コンセプトはFIRE(炎)! 日本代表が新ユニホームを発表! 久保建英、長谷川唯ら選手着用ショット!
そんな22歳は、松井氏から「大岩監督から口酸っぱく言われていること」を問われると、「ニアに入れ」と回答。「フォワード陣がしっかり点を取って(結果を)残すのは、チームが上に行くことには必要だと思います」と続けた。
五輪本大会に向けては「しっかりメダルを取りたいですし、その色のところもこだわってやっていきたいです」と覚悟を示した。
構成●サッカーダイジェストWeb編集部
2024年07月07日 16:08
J3の福島ユナイテッドFCは7月7日、2024ふくしまSDGsユニフォームを発表した。
このキットのデザインコンセプトについて、福島は公式サイトで以下の通りに説明している。
「福島の夏といえばわらじまつり。ユニフォームの前後に巨大わらじを彷彿させる縫い目と色(ライトゴールド)をメインテーマにデザインしています。2月にJ1川崎と業務提携を締結、4月には経営基盤の強化へとつながる株式譲渡を発表、新体制へと移行しJ2昇格の実現に向けて変貌を遂げました。当クラブの発展にセンセーショナルな追い風が吹くなか、新たな絆をより強固に結びつけるイメージを、わらじの縫い目で表現しています。
また、前面の下部には今シーズンのスローガン(カチを耕す。)、SDGsの17目標のなかで、当クラブが注力する6種のカラーを使用したロゴをレイアウト。背面には、農業部で選手たちが育てた桃、ぶどう、米やりんご、自慢の温泉をPRするためにそれぞれのアイコンをあしらいました。スポーツ×農業×SDGsに取り組むことで、地元の活性化や地域創造の一助として、サステナブルに活動していくことの決意を表現いたしました」
【画像】福島の2024SDGsユニフォーム
クラブの公式Xが新ユニを公開すると、「可愛いー!」「そうきたか!」「落ち着いた色合いで良い」「色も好み」「話題になりそう」「地元密着って、こういうことよな」「いつもイカしたユニありがとうございます」などの声が寄せられた。
なお、このユニフォームは、以下の試合で着用予定だ。
7月20日 第22節 vsテゲバジャーロ宮崎
8月17日 第24節 vsFC琉球
8月31日 第26節 vsギラヴァンツ北九州
9月6日 第27節 vsヴァンラーレ八戸
9月23日 第29節 vsFC大阪
10月5日or6日 第31節 vsFC岐阜
10月20日 第33節 vsカターレ富山
11月2日 第35節 vs奈良クラブ
構成●サッカーダイジェストWeb編集部
2024年07月07日 16:05
かつて本田圭佑もプレーしたメキシコリーグ。
国内リーグで最多優勝を誇る名門クラブ・アメリカで弱冠16歳の逸材がデビューを果たした。
2007年生まれのFWディエゴ・レイェスが、7日のサン・ルイス戦に途中出場し、プロのピッチに立ったのだ。BUENA SUERTE
América debutó a Diego Reyes a los 16 años. El juvenil porta el número 303 y tuvo que usar un jersey sin patrocinador debido a que, al ser menor de edad, él no puede lucir marcas para mayores de edad. pic.twitter.com/zgY0o6gThr
— DIARIO RÉCORD (@record_mexico) July 7, 2024
彼は背番号303をつけてプレーしたが、着ていたユニフォームが話題になっている。ひとりだけ胸スポンサーが隠されていたのだ。
他の選手たちのユニフォームには「Caliente」というスポンサー名が入っている。
「Caliente」はメキシコで大手のスポーティベッティング会社(メキシコでは18歳からスポーツ賭博が可能だそう)。
メキシコリーグでは18歳未満の選手がこのようなスポンサーが入ったユニフォームを着ることを禁止している。これは若いアスリートがアルコールやギャンブルに関連するコンテンツに晒されることを規制する取り組みの一環。
『AS』によれば、レイェスはメキシコリーグが前期後期制になって以降、クラブ・アメリカ史上最年少でデビューした選手になったそう。ユースカテゴリーではゴールを量産しており、将来有望なアタッカーとして期待されているようだ。なお、メキシコ代表としてロンドン五輪に出場した同姓同名のディエゴ・レイェス(現31歳)とは、当然ながら別人。
サッカー史上最も奇妙な「背番号10」だった8人
ちなみに、メキシコでは同じチームでもトップチームとユースチームで背番号が被らないようになっている。そのため若手選手は大きい数字を与えられることが多い。この試合ではクラブ・アメリカの控え選手のうち、5人が3ケタの背番号をつけていた。
2024年07月07日 15:59
EURO2024でベスト4まで駒を進めているスペイン代表では、右ウイングのラミン・ヤマル、左ウイングのニコ・ウィリアムズの突破力が抜群の効果を発揮している。
2024年07月07日 15:59
ブライトンに所属するドイツ代表MFパスカル・グロスが、ドルトムントと個人合意に達したようだ。6日、ドイツメディア『スカイスポーツ』が報じた。
報道によると、グロスはドルトムントへの移籍を「100パーセント」決意したようだ。ドルトムントとブライトンはまだクラブ間交渉を継続しているが、700万ユーロから1000万ユーロ(約12億円〜約17億円)ほどの移籍金で合意することが予想されている。
現在33歳のグロスはホッフェンハイムの下部組織出身で、2008−09シーズン途中にトップチームデビュー。ただ、定位置を掴むことはできず、カールスルーエやインゴルシュタットでプレー。2017年夏からブライトンに加わり、ここまで公式戦通算261試合の出場で32ゴール52アシストを記録している。活躍が評価され、昨年9月にドイツ代表デビュー。EURO2024でも1試合に出場した。
遅咲きの苦労人は、ブライトンとの契約が2025年夏で満了。ブライトンは契約延長に動いていたものの、フランクフルトをはじめとするドイツの複数クラブも獲得に関心を示していた。昨季チャンピオンズリーグ準優勝のドルトムントが、同選手の新天地となるのかもしれない。
2024年07月07日 15:33
G大阪は7日、GK東口順昭の左ひざ内側半月板損傷を発表した。
現在38歳の東口は、2014年にアルビレックス新潟からG大阪に加入。同クラブでこれまで公式戦通算394試合に出場しており、日本代表でも9キャップを刻んだ。
東口は昨年12月末に右ひざ内側半月板損傷の手術を受け、今季は開幕に出遅れたものの、3月からベンチ復帰を果たした。ただ、横浜F・マリノスへの期限付き移籍から復帰した一森純に正GKの座を奪われ、リーグ戦での出番は得られず。出場は天皇杯の1試合にとどまっている。
2024年07月07日 15:31
2023-24シーズン限りで現役を引退した元日本代表MFの長谷部誠氏が、自身のインスタグラムを更新。2010年から2014年まで日本代表を率いたアルベルト・ザッケローニ氏のもとを訪れたと報告した。
2023年2月に自宅の階段で転倒して意識を失い、頭部を怪我したザッケローニ氏は、集中治療室に入って治療を続け、同年4月に退院していた。
長谷部氏はザッケローニ氏と当時通訳を務めた矢野大輔氏との3ショットを公開し、以下のように綴った。
「ザッケローニさんに会いにイタリアに行ってきました。とてもとても元気で安心しました。いや、この変わらぬ目力にまた力をいただきました!とにかくずっと日本の素晴らしさを日本人の僕に力説していました!笑 日本の皆様にもくれぐれもよろしくとの事でした」
【画像】長谷部誠&ザッケローニ&矢野大輔の3ショット
この投稿には、「懐かしいです」「この写真震えます」「ステキな関係」「最高なショット!」「ザックさん、お元気になられて本当に良かったです」「絆は永遠に!」「良い思い出です」「素敵な笑顔が見れて感激です」などのコメントが寄せられた。
その絆は今も変わらないようだ。
構成●サッカーダイジェストWeb編集部
2024年07月07日 15:20
FC東京に所属するU-23日本代表のMF荒木遼太郎が、7月6日にテレビ東京系列で放送されたサッカー専門番組「サタデーナイトJ」にVTR出演。
2024年07月07日 15:12
ヴァンフォーレ甲府は7日、サガン鳥栖より期限付き移籍しているGKコ・ボンジョの期限付き移籍期間延長を発表した。
今年4月25日、甲府はGK渋谷飛翔とGK河田晃兵が同時に負傷離脱したことを受け、Jリーグに例外適用を申請して登録期間外にコ・ボンジョを獲得。当初の期限付き移籍期間は7月8日までだったが、今回12月31日まで延長された。
現在22歳のコ・ボンジョは、大韓民国出身。母国の龍仁大学校を卒業後、2023年に鳥栖へ入団した。甲府加入後は2024明治安田J2リーグの8試合に出場している。
コ・ボンジョは発表に際し、甲府のクラブ公式サイトを通じてコメント。「ヴァンフォーレ甲府のみなさん、この度、甲府との契約を延長することになりました。いつもチャントで後押しをしてくださり、ありがとうございます! J1昇格の可能性がある限り全力で戦いますので、引き続き熱い応援をよろしくお願いします!」と、シーズン終盤戦への意気込みを示した。
また、同選手は鳥栖のクラブ公式サイトを通じてもコメントし、「再び鳥栖の力になれるように日々の練習や試合でレベルアップしたいと思っています! 今後とも応援よろしくお願いします」と、甲府でのレベルアップを誓った。
2024年07月07日 15:04
7月6日、浦和レッズはJ1第22節で湘南ベルマーレと浦和駒場スタジアムで対戦し、2−3で敗れた。
この試合に人並み以上の想いを持って臨んだ選手がいた。今季に湘南から完全移籍で浦和に加わった石原広教だ。小学生時代から過ごした地元のクラブを覚悟を持って離れた25歳は、移籍後初となる古巣戦に燃えていた。
「古巣相手なので、力強く、気持ちを持って入ったつもりです。もっと上手くやって勝ちたかったけど、最後に上回られてしまった。シンプルに悔しいです」
試合は32分にアウェーチームに先制を許すも、60分のチアゴ・サンタナの投入で流れが一変した。62分と74分にT・サンタナが得意の左足を振り抜いて2得点を挙げ、浦和が逆転に成功。試合終盤までゲームを支配し、今季2度目の3連勝まであと一歩まで迫った。
だが、90分に湘南の石井久継に同点弾を決められると、直後の90+2分、ボックス内でのこぼれ球をルキアンに仕留められる。2017年以降に積み重ねていた駒場での「17」の無敗記録が途絶えてしまった。
【PHOTO】ピッチサイドのカメラマンエリアも揺れた!年に1回の”聖地”駒場開催で大声援を響かせた、浦和レッズサポーター(Part1)
前節のジュビロ磐田戦でのプロ初ゴールをはじめ、ここ最近は好調を維持していた石原。湘南戦でもさすがの運動量を発揮したが、長年ともに戦ってきた、自分のすべてを知られているとも言える古巣のイレブンに対して、後手に回る場面が多かった印象だ。
石原は、湘南の選手たちから“圧”を感じたという。
「湘南の選手が目の色を変えて来ているなというのは感じていました。対面した畑(大雅)とはずっと一緒にやってきて、お互いにやり方を把握している部分もある。あいつも1年目とかに比べたら成長していると思います。楽しめたけど、もっと上手くやれたんじゃないかという気持ちもあります」
気持ちを昂らせて臨んだ一戦だっただけに、劇的な逆転負けのダメージは大きかったのだろう。最後に石原は湘南戦で見えた課題と、今後への意気込みを語った。
「ボールを持つところと、プレスに行くべきところ、行かないところはもっと上手くやりたかったし、チームとして今後の課題だと思う。また、ボールにもっと強く行かなければいけません。まだ緩いところがあるので、みんなで要求し合わなければいけない。とにかく次の試合に向かって、練習から頑張りたいです」
敗戦のショックもあっただろうが、思い入れのある古巣とのゲームで得たものもあったはずだ。石原は次節の京都サンガF.C.戦は累積警告で出場停止だが、第24節の北海道コンサドーレ札幌戦以降に、ひと回り成長した姿を見せてくれることに期待したい。
取材・文●岩澤凪冴(サッカーダイジェスト編集部)
2024年07月07日 15:00
マジョルカは7月6日、ボーフムを退団した浅野拓磨と2026年までの2年契約を結んだと発表した。
かつて大久保嘉人氏、家長昭博(現川崎フロンターレ)、久保建英(現レアル・ソシエダ)もプレーしたスペイン1部クラブへの加入は大きな話題になるなか、韓国メディアも続々反応。『STAR NEWS』は「日本でまた(欧州5)大リーガー誕生。“ドイツ沈没”の主人公アサノが、イ・ガンインの古巣マジョルカに移籍」と題し、次のように伝えている。
「アサノは2022年のカタールワールドカップで、ドイツを沈没させた選手として有名だ。後半に交代で投入されると、強烈な右足シュートでゴールを決め、2−1での勝利に導いた」
同メディアまた、今年11月に30歳となる日本代表FWのキャリアを紹介。「アサノは21歳だった2016年、早くもヨーロッパに進出した」と切り出し、詳しく説明している。
【動画】マジョルカの投稿した浅野のウェルカムムービー
「最初のクラブはアーセナルだったが、労働許可証が得られず、シュツットガルト、ハノーファーでレンタル生活を送った。しかし、ドイツであまり活躍を見せられなかった。その後、パルチザンに移籍し、欧州への適応力を高めていった。そしてボーフムに活躍の場を移し、再びドイツでプレー。同クラブでは3シーズンで合計14ゴールを記録した。直近では最多の7ゴールを挙げた」
そのほか、『Xports News』は「日本サッカー欧州組50人時代」と見出しを打ち、「日本人選手の移籍ラッシュだ。5大リーグでプレーする現・元日本代表選手はいつの間にか13人になり、欧州全体に広げるとその数は50人余りに達する」と報道。やはり数の多さに目が行くようだ。
構成●サッカーダイジェストWeb編集部